「私は、今も、胸中の戸田先生と対話をしながら、世界広布への指揮を執っている。皆様も、この『師弟の大道』をまっすぐに進み抜いていただきたい。断じて勝利の人生を飾っていただきたい。『君よ、生涯、わが誓いに生き抜け!』」(名誉会長指導)
『師弟の大道』を生き抜くために
弟子は師と胸中で対話をしている。
苦悩うずまく人間世界にあって
弟子は常に胸中におられる師と対話をしながら
戦い抜いてきたのだ。
ならば友よ!
師は本部におられるのか。
いや、
君の胸中だ!
我が胸中なのだ!
混迷の時代にあって、
己の内なる正義を信じ
己の内なる師と対話をしながら
命の限り叫びたまえ!
「不正は不正である!」
「師の仰せを護りたまえ!」と。
師は必ずや君の勇姿を見つめている。
師は必ずや弟子の心を見つめている。
地位・財産・名誉、消えゆくものは
何もいらぬ。
ただ望むのは、
「在在諸仏土 常与師倶生」
我が命に刻まれた、久遠の誓いに生き抜く
生命(自身)であることを忘れまい!
誓約書にサインしなかった私たちは、学会本部から「本部の指導に従わない人間」として問題視された。
平成20年7月25日、本部人事委員会は、「経緯はどうあれ本部の指導に従わないことが問題だ」との理由で、私たちに対して組織活動の謹慎処分を下す。
学会員と一切連絡を取ってはならないと徹底され、男子部活動はもとより、本部幹部会同中で師匠とお会いすることも許されなかった。共に活動をしていた同じ組織の会員の方々には、「本人の体調が悪い」「仕事が忙しい」との嘘の理由が伝えられ、私たちに連絡をしない体制が取られた。
職員である私たちはどう言われても良い。しかし、謹慎となり、苦しい状況に置かれる会員をそのままにすることはこの上なく苦しいものがあった。社会の荒波の中で必死に戦う会員にとって、師匠と共に創価の組織で戦えることは生きる意味である。それが奪われているのだ。会員の苦しみは計り知れない。
原田会長に対し、“何とか一度話を聞いてもらえないか”、“何とか再監査をお願いできないか”と3度手紙を書いた。しかし、すべて断られた。
謹慎処分は平成21年3月31日まで延長。さらに本部幹部会同中で師とお会いすることが許されない日々は続いた。師匠の指導を求め、聖教新聞をむさぼるように読んだ。
謹慎処分が延長されても誓約しない私たちに対し、平成21年4月1日、本部人事委員会は組織役職の解任処分を下す。創価班・牙城会も卒業。
会員たちへの地域組織の対応はさらに厳しいものになっていく。会合の連絡すら来ない。嘘の作り話が飛び交い、「日顕・山友」と揶揄され、組織の同志との信頼関係も失われていった。中には、家族からも非難されるようになった会員もいた。
麗しい創価の世界を護り、創価を未来永劫に発展させゆくためには、“本部が職員の問題を伏せる体質”、“職員の世界で対話(話し合い)が出来ないという重大な問題”、そして、そうした問題によって“常に純粋な会員が犠牲となる”ことを、何としても師匠にお伝えしなければならない。
しかし、原田会長や、名誉会長の報告窓口である長谷川副理事長(現・理事長)などの本部執行部は一度も話を聞こうとしなかった。
何としても今の創価の現状を師匠に伝えたい。どなたか、師匠に伝えて下さる方はいないか。そう祈る中で、名誉会長の御子息である宮城副会長が思い当たった。
しかし、宮城副会長は名誉会長と行動をともにされている側近であり、ご多忙な方である。会って話を聞いてもらえる時間を取って頂けるとは限らない。それでも、何とか話を聞いてもらいたいとの思いで、手紙を書いた。
「決して私たちがすべて正しいと考えているわけではありません。」
「もし自身に過ちがあるならば、人間革命して参ります。」と。
自分たちは、ただただ正しいことをしたい、師匠の仰せ通りの生き方をしたい。
平成21年12月28日、宮城副会長の席に赴く。緊張で心臓を高鳴らせながらも、勇気を出し、「どうしてもお伝えしたいことがあり、お手紙を書いて参りましたので読んで頂けますでしょうか。お願いします」と手紙を差し出す。
宮城副会長は、「そうですか。はい。分かりました。ご苦労様です」と笑顔で手紙を受け取ってくれた。
これまでの最高幹部とは全く違う対応だった。話を聞いて下さるかもしれない。希望に胸が高鳴った。
宮城副会長からの返事を待った。何とか話が出来るように祈り続けた。しかし、一向に返事は無い。突然の相談の手紙にどうするべきか考えて下さっているのかもしれない。題目をあげ続けた。
そして、一か月が経った。なんの返答もなかった。
しかし、諦める訳にはいかなかった。自分には師匠への誓いがある。そして不当な扱いを受け続ける会員たちがいる。
そして、“もう一度手紙を書こう”と決意する。
平成22年2月8日、書き綴った手紙を携え宮城副会長の席のある事務所に入る。すると、宮城副会長の部下が行く手をふさいだ。
「なになになに、何しに来たの?(宮城副会長は)いないよ、いない!」と、私たちは事務所の外に力づくで押し出された。
部下は語った。
「池田家に組織の問題でご迷惑を掛けてはならない。」
「宮城さんは特別な人だから煩わせてはいけない。」と。
言いたいことは分からなくはない。
多忙を極める宮城副会長を煩わせることは本当に心苦しい思いだった。しかし、地域組織では、誓約しなかった会員たちがまるで反逆者のような扱いをされ続けている。師匠に誓って会員に罪はない。この状況を打破するために何とかしなければならなかった。
むろん弟子として、師匠を守り支える御家族を敬い、礼を尽くしていくことは当然だと思っている。しかし、創価は民衆(会員)のためにあり、師匠は民衆(会員)のために戦い、民衆(会員)こそが主役であることを教えて下さった。その名もなき、罪なき会員が最も苦しい状況にある。
ならば、伝え抜くしかないのだ!それが職員である意味だ!会員こそ命なのだ!
「特権階級ができれば組織は権力化し、腐敗する。指導者は、第一にも第二にも公平でなければならない。いかなる意味でも“閥”ができれば、崇高な目的に進む団結は不可能である。」(名誉会長指導)
「一切衆生が平等です。血のつながった親族だからといって、特別扱いするわけではない。」(名誉会長指導)
師匠は無名の一会員であろうとも、国の要人であろうとも、どんな立場であろうと、一人の人間として対等に対話をされ続けてきた。それが創価の真実の歴史である。
「池田家だから」「特別な人だから」煩わせてはならない。この思想を師匠が許されるとは到底思えなかった。
平成22年2月15日朝、本部の大広間での自由唱題時間。小平は宮城副会長の隣に座り、手紙を渡そうと「宮城副会長」と声を掛けた。
すると突然、2名の職員が背後から小平の両脇を抱え込み、後方に組み伏せた。一瞬小平は何が起きているのか理解できなかった。そのまま場外に引きずり出されていた。
おかしい!手紙を渡すだけだ!なぜ、暴力を使ってまで阻止するのか!あまりの理不尽さに、怒りが込み上げてきた。小平への監視は日増しに強くなっていった。
さらに2月22日、本部の朝礼終了後。小平は職場に戻る宮城副会長に後方から声を掛けた。すると、一人の職員が興奮して肩をぶつけてくる。
小平が、「ちょっと待ってください。何をするんですか。お手紙を渡そうとしているだけじゃないですか。」と伝えると、その職員は我に返ったような顔をした。
もう一度、宮城副会長に声をかけた。宮城副会長は自分の周りを囲んでいた職員たちに「いいじゃないか。私宛の手紙なんでしょ」と話し、自ら手を伸ばして手紙を受け取った。嬉しかった。周りに集まる職員の表情は実に苦い顔をしていた。
手紙を渡した後、小平は職場に戻り、いつも通り業務を開始した。すると、しばらくして突然、局長に呼ばれた。
要件は短かった。「2月人事で異動。詳しくは夕方に通知する」と。
夕方の内示通知の場。青森副会長から、「小平秀一、4月1日より、九州文化会館に異動」と説明される。理由は、「人事戦略プロジェクトで検討を重ねてきた方面との交流人事で、個人の業務スキルアップも目指す」と。
東京信濃町の学会本部から、縁もゆかりもない九州・福岡県への配置転換。覚悟はしていたが、頭の中が真っ白になった。
同日、私たちと同じく誓約しなかった職員の茨城氏も、東京信濃町の聖教新聞本社から広島県にある広島池田平和記念会館への異動を内示される。理由は小平と同じく「方面との交流人事」との説明であった。
■ 名誉会長御子息からの返答
宮城副会長の周囲の職員は、「池田家を守ることが職務である」と語る。実力を行使してでも宮城副会長と接触させまいとする。しかし、当の宮城副会長本人は、それを制して手紙を受け取ってくれた。その心に涙がでる思いだった。
宮城副会長ならば、私たちの手紙を師匠にお渡しして頂けるのではないかと思えた。対話をして下さり話を聞いて下さるのではないか。
師匠は、我々弟子に、“次の百年のため悪い職員がいたら真実の手紙をよこしなさい。間違っていたら絶対に信用しないよ。”と厳命されている。
宮城副会長に師匠への手紙を託そうと思った。宮城副会長宛の手紙を書くと共に、自らを懸け、師匠へ報告するための手紙を書き、同封した。
平成22年3月1日、茨城氏が手紙を差し出すと、宮城副会長はそれを受け取る。
しかし、一言。
「こういうことばかりしているから先生に敵対していると思われるんだよ!」と。
さらに3月8日、野口が宮城副会長に「先生に手紙を渡して頂けましたでしょうか」と尋ねる。
宮城副会長は、「渡せるわけがない」「こんなことばかりやっているから反逆者のように見られるんだ」と。
正直、本当に苦しかった。自分たちが全部正しいと思っている訳ではない。しかし、会員の声を、真実の声を何一つ聞いていない。なぜ判断できるのか。ただただ悔しかった。
御子息も師に届けて頂けないのか。なぜ誰一人として、一度たりとも話を聞こうとしないのか!
そもそも明らかにおかしい監査があった。しかし、私たちは誓約書にサインしないことによる謹慎処分・謹慎延長・役職解任、すべての処分を受けてきた。誓約できない理由は、職員規律委員会に50ページに渡って書き伝え抜いた。その結果「職員として問題なし」との結論がでたのだ。
それでも、原田会長、正木理事長、青森副会長は、職場の会合を使って私たちを批判する。名誉会長への窓口である長谷川副理事長も、師の指示に反して、報告を拒否。だから御子息に手紙を書いて師匠への報告をお願いした。それが、なぜ、なぜ師敵対になるのか!なぜ反逆者になるのか!
「いかなる困難の壁にも屈せぬ負けじ魂だ。ひとたび、正義を叫んだら、相手の心に伝わるまであきらめぬ忍耐だ。」(名誉会長指導)
絶対に負けない!断じて負けない!
ただ、ただ必死に祈った。師匠が2月の職員全体会議で、もう一人の御子息である栃木副理事長を厳しく薫陶されている姿を思い返した。師の期待を受けられる栃木副理事長に行くしかない。
平成22年3月17日、野口は、栃木副理事長に会いに行く。
本部職員としてずっと生きてきた。自分の行動が職員の常識を破っていることは重々承知している。しかし、職員として最も守らねばならぬ常識は、会員のための職員、会員のための本部、会員のための創価ということだ。
栃木副理事長に手紙を渡し、師匠への報告を懇願する。
すぐに返事はなかった。師匠への報告を真剣に考えて下さっていると信じた。
「人間を信じ、対話に徹し抜いていくところに、仏法の人間主義の真髄がある」(名誉会長指導)
同年3月29日、野口は栃木副理事長に尋ねる。
「先生に手紙を渡して頂けましたでしょうか」と。
しかし、返事は「私から先生には手紙を渡せない。第一庶務に渡しました。」と。
第一庶務(名誉会長秘書室)からでは師匠に手紙が届かない。そのことは、栃木副理事長への手紙に書いている。失礼を承知で栃木副理事長まで懇願しにきた経緯も書いている。
以前、小平が役職解任となっても戦い続ける決意を師匠に報告するため、第一庶務に報告書を届けたことがあった。しかし、最高責任者の群馬副会長は、「解任になったことを先生に報告するなんて失礼だ!」と受け取りを拒否した。さらに、第一庶務の最高幹部である長谷川副理事長や宮城副会長も、私たちの手紙を師匠に渡せないと拒否していた。それらの事情は全て手紙に書いている。
それにも関わらず、なぜ「第一庶務に渡しました」と。
野口は呆然とその場に立ち尽くし、足早に去っていく栃木副理事長の姿を見つめた。
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